江戸幕府の開設者である徳川家康は、天文11年(1542年)から元和2年(1616年)の戦国時代を生きた人物で戦乱の世から260年以上に及ぶ太平の世を迎える礎を作った三河(現愛知県東部)出身の戦国武将です。天下を目指した織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を戦国三英傑と言われています。
徳川家康が香木のコレクターだったことはご存じでしょうか?
江戸幕府を開いた後、徳川家康は東南アジアとの朱印船貿易を行っており、その際に香木も輸入していました。その際にかなりの量の銅と交換していたそうで、今でも名残として香木が採れる原産国の一つのベトナムでは貨幣の単位をドンと呼ぶようになったという説があります。
また、家康は、自らお香の調合を記した『香之覚』という書物を書き残しています。現在でも愛知県名古屋市東区にある徳川美術館だけでも多くの香木が大切に保管されています。
現代でも非常に価値のある香木。
実際の香木はこちらに掲載しております。
香木一覧
以下徳川家康の簡単な経歴
1542年三河岡崎城主・松平広忠の長男として岡崎に生まれた徳川家康(幼名を竹千代、また、次郎三郎、松平元康と名乗っていた)は幼い頃から6歳から8歳まで織田信長の父、信秀の2年間人質となり、8歳の時に実父広忠が亡くなると今度は駿府の今川義元の人質として8歳から19歳までの12年間を過ごしました。(その間に今川家の重臣である関口義広の娘の瀬奈、後の築山殿と結婚し、長男信康、長女の亀姫を授かります。)その後、1560年に発生した桶狭間の戦いに今川軍の一員として参加し、今川義元が戦死すると長年の人質生活に終止符をうちました。その2年後の1562年、愛知県清須市にある清須城を訪問し、織田信長と同盟を結びました。翌1563年に4歳の長男の信康は、信長の娘、徳姫と政略結婚します。同盟を契機に元康は、家康へ改名します。
その後、1566年に東三河、奥三河を平定し、三河国の統一を達成します。その際に性を徳川と改めます。これにより多くの皆様が聞いたことのある徳川家康という名前になります。
また、同年朝廷からも正式に三河守(愛知県東部を統治する役職)に任命されます。1570年の姉川の戦いでは浅井、朝倉軍を破り、岡崎から浜松に本拠地を移し浜松城を築いてそこを本城にします。
1572年には甲斐の武田信玄の侵攻を受け、二俣城の戦いで敗北、さらに三方ヶ原の戦いでは、大敗北を喫し、800人もの家臣を失ったと言われています。
翌1573年に武田信玄が病死すると今度は甲斐に長篠城を本田忠勝らに攻めさせます。
1575年になると織田信長との連合で長篠の戦いで信玄の息子武田勝頼を倒しました。
1579年には後の2代将軍で三男の秀忠が誕生するものの、長男信康が武田氏と通じていたという疑惑が発生し、正室であり信康の母親でもある築山殿と共に信長の命により殺害、切腹させます。
1582年に武田氏が滅亡したことで駿河国を手に入れますが、同じ年、同盟相手である織田信長が本能寺で家臣の明智光秀に攻められ自害に追い込まれる本能寺の変が発生します。その後明智光秀は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)によってうちとられますが、秀吉が後継者として頭角を現し始めます。その後、後継者争いである小牧、長久手の戦いが勃発し、秀吉と戦うが最終的には和睦します。
1586年には浜松城から駿府城に移り、秀吉の妹、旭姫と結婚します。
1590年の小田原攻めで先鋒を務める活躍をするが、秀吉の命令によって当時はド田舎だった江戸城に移ります。
秀吉の死後、再び天下人になるために奔走し、1600年に関ヶ原の戦いで豊臣秀吉の家臣の石田三成を破って本格的に天下人の道を歩んでいくことになります。1603年朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開きます。
その後、本来、秀吉の息子、秀頼がなると言われていた征夷大将軍を自分の息子秀忠に譲り、自らは、大御所となります。
そうなると豊臣家との闘いは避けられず、1614年の大坂冬の陣、1615年の大坂夏の陣の2度にわたって戦い、最終的に勝利を収め、豊臣家を滅亡させ、天下統一を果たします。
1616年には朝廷から太政大臣に任命されますが、同年駿府城で病死し、久能山に埋葬されます。死因については、いろんな説がささやかれており、一説には鯛の天ぷらにあたったとも言われています。死後、東照大権現の神号を与えられ、神としてまつられるようになりました。